昭和56年 12月21日 朝の御理解   入力者【明渡徳子】
⑦・⑨

御理解第71節「ここへは信心のけいこをしに来るのである。よくけいこをして帰れ。夜夜中、どういうことがないとも限らぬ。おかげはわがうちで受けよ。子供がある者や日傭取りは出て来るわけにゆかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参って来ることはできぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ。」


夜夜中いつどんな時にどう言うことが起こるとも限らない。そういう時にわがうちでおかげを受けよと仰る。その夜夜中とか、おかげはわがうちで受けよと仰せられるのはどういうことだろうか。あたくしは、いつ例えばどういう時、夜夜中どういうことがあっても、また起こっても驚かんですむだけのおかげを頂いておる、おけということだと思うですね。どういうことが起こってきても、驚かんですむだけのおかげを受ける。ね、それにはここに、しっかり本気での信心の稽古に通うておかなければならないね。

もう稽古も本気でなからなならんが、でなかったら夜夜中というような、いつどういうことが起こるやら分からんと言う。そういう時に、信心でピシッとこう受け止めれるね、おかげはわがうちで受けよと仰るおかげは、おかげはうちででも受け止められるだけの信心だと思うんですね。そりゃあやっぱり夜夜中、まあビックリするような事があるかも分かりません。

例えば小さい子供なんか持っておりますと、もう夜夜中ビックリするような熱が出たり、どこが悪いか分からんけれどもー、ひしって泣いたりするような事がありますよね。そういう時に慌てんですむ。例えてこの、例えばあのしきり?ですね。昔はしきりを使ってましたが、例えば十斤がかりなら十斤がかりのしきりにね、坪いっぱい十斤のものをかける時には、やはりその分銅をっとこう十斤の目盛りの所に持ってこなければできないでしょう、ね。

それを分銅をそこへこう持ってこないと、その重たい物をかけるならそれがこうひっくり返ってしまうでしょう。けれども、その十斤の目盛りの所へこう持って来ると、水平を保つ事ができるでしょう、ね。例えば、五斤のものを持って来ても、ただそのままであったらやっぱりこうそれはひっくり返ってしまうけれども、五斤のものという時にはそこにこうやって、まあ五斤ぐらいあろうという時にこう五斤の所へこう、目盛りの所へ持ってきますとね、この水平を保つ事ができる。

しきりが狂うておるか狂うてないかと言うのは、もうとにかく1番根元の所へ分銅を持って来てこうかけてみると、やっぱ水平だ、なんですね。これでこのしきりが狂ってないと言うことをまず知ること。そして、三斤のものが五斤のものが、十斤のものがとこういう例えば言うなら大きな段々信心が大きくなってまいりますと、百金がかりでも千斤がかりでも、どう言うことがあってもどっこいとこう受け止められるだけの芯、それは日頃頂いておる信心をちょっとこう持ってくればいいわけです。

言うなら合楽理念はこう言う時には、とぱっと答えが出るようなね、おかげを頂いておきますと言うなら慌てんですむ、水平を保つことができるのです。それは百斤、千斤のものであっても、言うならばそのー、しきりが大きなしきりであれば上がらんですむように、段々お互いの信心もね、十斤がかりから百斤がかり、百斤がかりから千斤がかりというようなおかげを頂かしてもらわんならん。

⑦●特にこれは取次させて頂く者なんかは、ここへこうやって座っておりますと、もうそれこそまあ普通でならビックリするようなね、「もう先生どうしましょうか」と言うて、まあ飛び込んでくるよう方があります。それで言うならここへ座っておる先生が、「それあんたどうすんの」と言うて、先生まで一緒に慌てるのじゃなくて、日頃ね、の信心にここでもの言わせれるだけの教導、ね。

例えば、千斤の難を持ち込んだ時に、やはり千斤の所へこうやってやはり心が平生である。まあ平生心でお取次がでけるようにならんとおかげは頂かれん。今若先生が、親教会に修行に参ります前、まあ色々自分としても迷うておる時分だった。こちらの道こっち1つ、こちらへあの子供達の勉強部屋が、今中嶋さんたちがおられる2階にありました。

それであたくしは知りませんでしたけれども、やはりー、あの子供なりには子供なりの親の跡を継がねばならん。為にはね、どういう信心をしたらいいかといったようなことを本気で考えた時代。だから、今親教会の1年間の修行もさせて頂いたわけでしたけれども、「もう神様ほんとに私がお道の教師として親の跡を継がせて頂けるものなら、神様お知らせを下さいませ」と。まあ晩も寝らんようにして御祈念をしたけれども、まあ神様からお知らせも頂かなかったとこう言うのです。

ところがそういうある日お夢を頂いた。そのお夢がね、御結界に座ってこのここにこう玉串案がここにやってお縁が2つこうやって置いてあります。この玉串案がもうものすごく厚い。大きな。そしてこのお縁がこう斜めに中に放り込んである、こうやって。上にこうあるんじゃなくてね、斜めにここに放り込んであるというそのお知らせを頂いたと、ね。だから結局まあ自分では分からんから、すぐ私のところへこんなお知らせを頂いたと言うてやって参りましたから、あたくしはそれを聞いて確かに取次ぎ者としてのー、まあ信心というのは、ここに焦点を置かれなきゃいけない●なと。

例えばご信者がどういう難儀なね、それこそ百金も千銀もと重みのあるような難儀な問題をここへどんと持ってきても、これがへおらんような信心ね。これでへぼってしもうてこれが折れるようなことじゃでけん。どっこいとここで受け止められるだけの信心が頂ける。そしてこのお縁がこうやって信者の方向いてない、これが斜めにこう、しかもここにこう放り込んであるね。

これはどういうことかというとね、お供えが多いとか少ないで言うならば取次ぎの方にも故障がきたすようなことでは、「この人はお供えもせんとにお願いばっかりする」といったような気持ちは、言うなら我情我欲を捨ててここには座らなければならないぞ。信者のお供えと言うものは向こうへ向けとくな。斜めはんとくにしとけとこういうような意味じゃろうねと、言うて話したことがございます。

ね、これは取次者のまあここんところを精進して、信心の修行をするわけですけれども、どういうものを持ってきてもどっこいとこう受け止められる。どういうことであっても受け止められるだけの、あたくしはやはり力を頂いて、そういう言うならば稽古を本気でしなければならない。これは取次者だけじゃない、今日の御理解で言うと、ここへ参って信心の稽古をしておけ。どういう稽古をするかと。

夜夜中いつどういうことがあるとも限らない、おかげはわがうちで受けよ。おかげはわがうちで受けられるだけの信心という、言うならおかげとは、夜夜中どういうことが起こってきも、どっこいとこうね、ここは合楽理念でどう受けるかというように、分銅、百斤のものなら百斤の目盛りの所へこうやって持ってこれれるだけの言うならば、言わば行くことのできれる信心を身に付けておきたいね。

そこでなんですけれどもね、もうそういう信心の稽古を、はあ、なるほどそういう時に、そのちきりのそれじゃないけれどもそうやってその、実験の時にはたった五斤か三斤がでもひっくり返ってしもうて腹が立ったりするといったようなことがある。そういう腹の立つ場合に、ちょっと三斤のことであったら三斤のところへ分銅を持ってこれれば、へいへいでおれれるだけの信心を、言わば常日頃稽古しておかなきゃならんね。

実験のものがさっと来たら、実験ところへもうこうやるだけで自分の心は水平。そういう稽古をしとかなきゃならんね。だからそういうような言うならまあ調子を、おかげを頂けれるということはどういう事かというと、私は合楽理念に基づく実験実証させて頂いておると、確かにね、自分の信心がその、狂っておる、違っておる。御理解を頂いてそれを正していく事ができる。

自分が持っておる時計が3時なら3時だと思うておったら、教会にお参りさせて頂いたら、もう5時回った。2時間も遅れておったと例えば。そういうことがありますけれども、お教会に来てからキチッと合わせてまた帰ると言う。あたくしは日参なんかというのはそんなあたしはもんだと思うです。

⑨●自分の信心が言うならいつも平生心でおれれるか、本気でー、実験実証させて頂いておるか。自分がほんとと思うておったけれども、お教会にいったら2時間も例えば遅れておったと。というところでこう合わせていくところにね、言うなら調子がいつも合っていくと言う。まあそれをここでは、んー、天地のリズムを聞くといったように申しますね。

お家でテレビを見よっても、表外へ出ておってもね。例えばすりかういきあう言うならばあの車のナンバーからでも、いつも自分の心を、うーんと神様との調子が合っておる合ってないを感じ取らせて頂けれる。いつでもその感じ取らせて頂けれるおかげ。そこのところがね、楽しゅうなる稽古さしてもらわんと、もう稽古が楽しいものになってこないです。

ね、自分の1日の在り方がね、間違っておっても間違ってなくても、1つもそこに響きを感じないような事では、信心が進みません●ね。もう何十年も前ですがね、久留米にも(  )座という芝居小屋がありました時分に、先々代の幸四郎ですね。松本幸四郎がもう晩年でした、参りました。それでもう、もうよぼよぼのおじさんでしたから、普通はこう両方から手を支えて、あのお弟子さんたちがというように、ような状態でした。

それであのその日、その時にはちょうどまあ連獅子を舞いましたが、もう舞いの中でも大変な激しい舞いですよね、連獅子というのは。ですからもう花道のあの幕の向こうまでは、もう抱えられるようにして来るんですよ。揚げ幕が上がった途端に、ピシャッーと。あたくしは声に驚きましたねそればってん。はい、私はほんの花道の際で見よったです。

それで、ようもこれこそそうやって来たと思うとったけれども、揚げ幕がもう上がった途端にしっかり、ピシャーっと立って、あの長い花道をサッサッサッサッとこう舞台に出て行く。そしてあのー、若い者のようなわけにはまいりませんけれども、こう、こう獅子がね、舞うところがありましょう。もうでももうほんとに、まあ芸の力というものが素晴らしいことをあたくしは感じたんですけれどね。

結局、そのなりまがって、へんとこう(  ?  )と、なるともうピシッと乗ってしまうんです。ですからもうそれこそ思わず知らず、体がこう向くようにして、調子に乗って言うなら舞を舞う。恐らく、また舞を舞い終わったらまたガタガタッと体が崩れるように、まあ疲れるでしょうけれどもね。その日頃のいわゆる稽古と、それからその成り者調子でしたよね。がです、あのなってまいりますと、例えよぼよぼしておっても体がしゃんとなるというくらいなおかげを頂きたいね、ね。

だから調子に乗りすぎるという事は、何事でもいけませんけども、いつも調子に乗る、調子に乗った生き方というものを身に付けていきたい。ね、だからせっかく言うなら稽古をするならばですね、まあこれはその、そのあの楽器の事で申しましたら、三味線の稽古をするというても、調子が分かるところまでは稽古しなきゃいけないね。

だから天地との調子が合わせられる所までは、違っておることが気付かせてもらう。お教会に行ったら、あ、自分の時計が何時間遅れておったという事が分かるぐらいな、合楽との調子がいつも合ってるという日々を過ごさせて頂いておりますとね、夜夜中、いつどういう事が起こってきてもね、わがうちでおかげを受けよと仰る。いわゆる驚かんですむ。
言うならば分銅をちょっとその重い実験のものではない実験のところへ持ってくるだけで、心は平生心。水平を保つことができるね。稽古と言うてもそういう夜夜中、どういう事が起こってきても、わがうちでおかげを受けよと仰る。わがうちでおかげの受けられる信心とは、結局本気で稽古をさしてもろうて、言うならば調子の分かるところまでは稽古をしておけ。

神様というのはいつも交流具合いというものがです、いつも自分で感じられるね。でも1つ調子に乗って、いわゆるノリに乗っての日々の信心生活。こんな楽しい、有り難いものはなかろう。もう動かんはずのところが動く。ね、これはやはりを稽古本気でしておかなければね、調子が、例えばそのリズムが奏でられておっても、自分の体がそれの調子に合わない。

とても普通で言うなら難しいと思われるような事でも、調子に乗ってまいりますと、そこが楽に楽しく乗り越える事が出来る。ね、稽古もあたくしはそこまでの稽古。今日あたくしは夜夜中、どのよう、いつどんな時でもおかげをわがうちで受けよと仰るのは、日頃あの稽古しとくいわれるようなことがあってもおかげが頂かれるとこう思うておった。けれどもそうじゃない。わがうちで受けよということは、どういう事が起こってもその時に慌てんですむだけの、いうならば信心を頂いておけよ。

稽古に通うて来るならそこんところを焦点に稽古しておけよということであると思います。どうぞ。